帚木蓬生『『沙林(さりん) 偽りの王国』

平成7(1995)年3月20日、オウム真理教による地下鉄サリン事件発生当日、私は朝早くヨーロッパ出張から成田に着いてリムジンバスに乗っていました。突然渋滞となりバスの運転手さんがしきりに電話連絡をとっていました。スマホもない時代、何かとんでもないことが都心で起こっているらしい ー  とても不安な時間が4,5時間続きました。その後、前々年11月の坂本弁護士一家殺人事件、前年6月の松本サリン事件などが次々に判明しました。オウム真理教とロシアのつながりを含め、国際的にも大きな反響を巻き起こした事件でした。

しかし、私を含め、いまオウム真理教について国民全体での記憶が風化しつつあるのではないでしょうか。最近では統一教会が注目されていますが、「宗教」のありかたについて考えるときに、この「オウム真理教」事件の実態についてもう一度思い返すことは意義のあることだと思い、『沙林(さりん) 偽りの王国』を読みました。精神科医でもある著者帚木蓬生の500ページを超す労作(2021年3月発刊)で、以下は私個人の備忘録としてパソコンに入れたものです。少し長いですが、もしお時間がありましたら、目を通していただければ幸いです。
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現在の警察機構では、警察庁が警視庁以下の各都道府県の内実をすべて掌握しているわけではなく、かつ各県警同士の交流も全くない。坂本弁護士一家失踪事件は神奈川県警、国土交通法違反は熊本県、松本サリン事件は長野県警、公証役場事務長拉致事件は警視庁、上一色村の異臭・サリン検出は山梨県警がそれぞれ担当し、教団本部があるのは静岡県だった。教団はそうした警察の弱点を十分知っていたと言える。なお坂本弁護士の遺体は新潟県、妻の遺体は富山県、子供の遺体は長野県に、離れ離れに埋められていた。ここにも教団の徹底した隠蔽策が見える。

一般に、化学を専攻している研究者は、能力があっても将来の職場に不安と限界を感じている。教団はそこに目を付けたのだ。閉塞感を感じている研究者にとって、オウム真理教の研究施設はふんだんに資金があり、大掛かりな装置も夢ではない。サリン製造は自分の実力を発揮できる絶好の機会であった。もちろんそのとき、倫理観は偏狭な宗教思想に置き換えられていた。

第一次世界大戦で、フリッツ・ハーバーのような科学者たちが専門知識を生かして毒ガスを製造したとき、彼らの頭を占めていたのは「国家」だろう。お国のため、母国の勝利のための毒ガスだったはずだ。そのとき、人を大量に殺生してもいいのかという倫理観は、もうどこかに吹き飛んでいたはずだ。殺すか殺されるかの戦争だから、自国民を護るため敵をせん滅するのは仕方がない ― このとき、倫理観は超法規的な概念によって無力化される。 

オウムでは、尊師を頂点に13の階級があり、上位者にはホーリーネームが授けられる。階級ごとに身に着けるバッジ、帯の色などで一目で区別できる。最高幹部クラスは運転手付きの高級車が与えられる。階級付けと処遇の差は、(組織の 安徳)権威を保つための見事なやり方で、宗教とは名ばかりの疑似軍隊組織だった。ホーリーネームは、教祖への帰依の証となるとともに、これにより、ひとりひとりは分断され、洗脳は強化される。

宗教という隠れ蓑がいけなかった。手を出すと、すぐさま宗教弾圧と言われてしまう。管轄するのは文部省の外局、文化庁であり、現在国内には18万を超える宗教法人が存在している。いったん認証されると、もはや行政が裁量を働かせる余地はなくなる。野放しの聖域と化すのだ。浄財として集めた金は非課税であり、法人税も固定資産税もない。営利事業を行った場合でも、収益部分に対する税率も一般企業が37.5%なのに比べ、27%と低い。ここまで政治家が宗教法人を野放しにしてきたのは、宗教法人からいくら金を吸い上げても、帳簿には残らないから、あとくされは一切ない。一種のマネーロンダリングである。日本の国会議員の7割が、宗教法人と何らかの関係があり、その応援が無ければ選挙に勝てない。その理由で、法改正(厳格化 安徳)は難しい。

霊感商法の最後の仕上げが「出家」である。信者の財産を全部巻き上げるという「お布施」をさせ、これには税金がかからないから、教祖丸儲けである。金がたまりにたまる中で、教祖の誇大妄想的思考が膨張していく。そこに生来の目立ちたがり屋が結びついた結果が、総選挙の立候補だった。しかし、霊感商法がいつまでも続くはずがない。被害者の会が結成され、告発記事を掲載するマスコミも出てくる。誇大妄想的思考が裏返って被害妄想的思考が高まってゆき、「身を護るには武装しかない」とし、弟子たちを鼓舞するために、世界の終末を予言するハルマゲドンを唱えだす。

麻原には強烈な学歴コンプレックスがあった。東大医学部を志望したが失敗する。残された解決法は、高学歴のものを顎で使う道だった。日本やロシアの有名国立大学での度重なる講演は、その助走だった。

週刊新潮は、民放が図らずも教団の宣伝部に成り下がっている実態を書いていた。教団の上祐外報部長と青山顧問弁護士が、「視聴率男」として連日引っ張りだこだという。青山顧問弁護士は地下鉄サリン事件の2日後、櫻井よしこ氏がキャスターを務める「きょうの出来事」に出て、番組史上2番目の19.2%の視聴率となった。またこの二人のコンビに加えて在家信者を出演させたテレビ朝日「朝まで生テレビ!」は通常1%台であるが、8%という驚異的な高視聴率をあげた。翌月、日本テレビは特番「緊急スペシャル!オウム真理教の世界戦略とサリン事件の謎。 今夜真相に迫る」を組む。視聴率は36.4%に達し、日本テレビにとっては、「オウムさままさま」になっていた。

私たち一人一人が胸に刻まなければならないのは、人はいとも簡単に洗脳されるという事実である。密室あるいは外部と隔絶された空間で、四六時中、単純な論理を繰り返し吹き込まれると人は誰でも洗脳される。そのとき、高学歴の専門性など何の手楯にもならない。むしろ偏狭な専門家であればあるほど、洗脳される。オウム真理教の高学歴集団がその好例である。

この洗脳が起こりやすいのは、なんといっても宗教である。もちろん、この世に対する不安感と空虚感が培地となる。頼りにされるのは、安寧をもたらすごく単純な論理であり、オウム真理教では“解脱”であった。そうした偏狭な宗教心を洗脳によって植え付けるためには、他者との交流を断って、閉鎖空間の中で、単純な教理を何万回も吹き込む。それが何日も何週間も続けられると、もはやヒトの脳が抗うのは無理である。

オウム真理教は2000年に「アレフ」と改称している。さらに2007年、上祐史浩が「ひかりの輪」を設立して分派、2015年には「アレフ」の内部分裂により第3の集団が設立された。3団体の拠点は、15都道府県に合計31あり、信者数は1650人、資産もここ10年で4倍に増え、12億9千万円だという。これらの団体には、教祖の写真や説法を収録した教材が保管されているので、後継教団の中では、教祖がまだ生きているとみなすこともできる。

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