「反知性主義」という言葉は、アメリカの社会史を研究する学者の間では以前から使われてきた概念だが、トランプ政権(いわゆるトランプ2.0)以降、日本でも頻繁に耳にするようになった。
日本でこの言葉は、しばしば「反知性・主義」、すなわち「知性の否定」という意味合いで理解されがちである。しかし、アメリカにおける「反知性主義」はやや異なる。端的に言えば、それは「名門大学出身の知的エリート(オバマやヒラリーなど)が、自らの理想を正義として掲げ、アメリカ社会の伝統的価値観を押し流してしまうことへの反発」である。つまり、知性そのものへの否定ではなく、「知性」と「権力」との癒着に対する抵抗の姿勢、「反・知性主義」なのである。
本稿では、森本あんり著『反知性主義』(2015年、新潮社)を基礎文献として、この古くて新しい概念について論じていきたい。
【リベラルと保守 ― アメリカ政治思想の基盤】
本論に入る前に、アメリカにおける「リベラル」と「保守」の基本的な違いを整理しておく必要がある。なぜなら、民主党政権が推進してきたリベラルな政策に対する保守層の反発の中に、「反知性主義」が深く根を下ろしているからである。
■ リベラル(自由主義・進歩主義)
主に民主党(Democratic Party)を支持基盤とし、以下のような特徴をもつ:
*政府の積極的な介入を支持:社会保障、医療、教育などで「大きな政府」を志向
*社会的平等の推進:LGBTQ+の権利、人種差別是正、移民の保護に積極的
*環境保護の重視:再生可能エネルギー推進、気候変動対策
*累進課税を支持:高所得者への増税を志向
*銃規制の強化:民間人の銃所持に一定の制限を設けようとする
*多文化主義への傾倒:多様性・包摂性を価値の中心に置く
■ 保守(保守主義)
主に共和党(Republican Party)を支持し、以下のような価値観を強調する:
*自由市場経済の尊重:政府介入を最小限にとどめる「小さな政府」
*伝統的価値観の維持:家族、宗教、道徳を重視
*国防と治安の強化:軍事・警察力への信頼が強い
*減税志向:特に富裕層や企業への減税を支持
*銃所持の自由を擁護:合衆国憲法修正第2条を重視
*移民規制の強化:不法移民や国境管理に厳格な姿勢
【反知性主義の源流 ― プロテスタントとアメリカ建国】
1. アメリカ独立への道
1492年のコロンブスによる新大陸到達を契機に、ヨーロッパ諸国が北アメリカに進出。1620年にはイギリスの清教徒(ピューリタン)がメイフラワー号でマサチューセッツに上陸し、ニューイングランド植民地が形成された。その後拡大していった13の植民地は一定の自治を保っていたが、本国からの重税に反発し、1775年に独立戦争が勃発。翌1776年にはトマス・ジェファーソンらによる「独立宣言」が採択され、1789年に初代大統領ジョージ・ワシントンが就任した。アメリカは中世を経ず、王侯貴族の支配を飛び越えて直接「共和制」に至った、世界的に稀な「純粋培養」国家である。このため、時として宗教と憲法から派生するラディカルな理念主導の社会現象が表出する。
2. キリスト教と反知性主義の萌芽
イギリス国教会の強制に反発した清教徒たちは、「信仰の自由」を求めてアメリカ大陸に渡り、聖書を唯一の規範とする社会を築こうとした。彼らが重視したのは「信仰の自由」と「神の前の平等」であり、この精神がアメリカ建国の理念となった。プロテスタントは「万人祭司主義」を掲げ、牧師と信徒に本質的な階層差を設けない。しかし現実には、牧師には聖書の解釈と説教のための高い知的訓練が求められ、教育機関としてハーバード、イェール、プリンストン、コロンビアといった大学が設立された。
これに対して、教育を受けずとも聖書を読む知的能力を持っていた一般信徒から、「知性が神の前の平等を脅かす」とする疑問が生まれた。これが、アメリカにおける「反知性主義」の始まりである。
3アメリカにおける反進化論の背景にも、こうした思想がある。彼らは必ずしも科学そのものを全面否定しているわけではなく、進化論を「連邦政府が強制する知の権威」と見なし家庭の教育権への侵害ととらえて反発しているのである。
【反知性主義の本質】
「反知性主義」は、単なる「知性への嫌悪」ではなく、知性と権力の結びつきに対する強烈な懐疑と抵抗である。すなわち、知性が国家権力や支配階級と結びついて「上からの押し付け」となったとき、それに対する市民の反発が「反知性主義」として表れる。
知性に反対しているのではないが、「霊性よりも知性が優越する」とする価値観には強く異を唱える。それは、「神の前では万人が平等である」という急進的な宗教原理に立脚している。
【トランプ2.0を生んだ民主党のエリート化】
ハリス副大統領の登板が準備不足であったと批判されるが、民主党自体にも長年の構造的問題があった。その一つが「リベラル派のエリート化」である。かつて労働者階級の支持を得ていた民主党は、今や高学歴エリートの政党となりつつある。クリントンもオバマも「教育を受けて大学へ行け」と繰り返すが、それは「自分のようになれ」という無意識の上から目線に聞こえる。教育を受けたくても受けられない層にとっては、むしろ疎外感を深める。
対するトランプは、学歴やエリート主義を否定し、「悪いのはあなたにそう思わせるエリートたちだ」と訴える。反知性主義は、今も彼のトレードマークである。民主党は20世紀においては課税の公平や福祉拡充に尽力していたが、21世紀に入ってからは妊娠中絶、ジェンダー、人種問題などに焦点を移し、労働者階級の声を取りこぼしていった。こうした空白をトランプ陣営が巧みに突いたのである。
【現代アメリカにおける不安と反知性主義の再燃】
「反知性主義」の再燃には、アメリカ社会に蔓延する「衰退への恐怖」が背景にある。
*移民増加による白人比率の低下
*中国の台頭
*キリスト教信仰の衰退
*中絶やLGBTQ+問題の顕在化
*高級官僚への権力集中(いわゆる「ディープステート」論)
*DEI(多様性・公平性・包摂)の過剰な推進による伝統的な価値観の崩壊
4 こうした要因が、「理性」や「知性」といった既存の権威への信頼を揺るがせている。
【知性は本当に必要か ― アメリカ大統領の資質】
アメリカでは、必ずしも高い知性が大統領に求められてきたわけではない。むしろ知的エリートへの警戒心から、庶民的な人物が支持される傾向にある。1829年に第7代大統領に就任したアンドリュー・ジャクソンは、「特別な教育がなくても人々は自治能力を備えている」と訴えて勝利した。知識よりも「人間的な共感」が重視されたのである。
1953年に第34代大統領に就任したアイゼンハワーも、知的には凡庸とされたが、親しみやすさと軍人としての実績で支持を集めた。
第40代大統領レーガンも、「我々の生活は我々自身が決めるべきだ。少数のエリートが遠く離れたワシントンから管理するなど許されない」と訴え、支持を広げた。
【結論】
アメリカにおける「反知性主義」は、単なる知識や学歴への反感ではなく、「知性が権力と結託して人々の生活を支配すること」への拒否感である。その根には、アメリカ独特のプロテスタント的平等思想と、強い反権威主義が横たわっている。この視点を踏まえることが、現代アメリカ政治の構造やトランプ現象の根本的理解につながるであろうと考える。