「感性」の大切さ

夏から初秋の季語「墓洗い」を使った俳句です。「墓洗い 〇〇〇ところは ないですか」

この〇〇〇に入れるヒラガナはなんでしょうか? 高齢者が多い百歳体操サロンで尋ねたところ、「いたい」派と「かゆい」派に分かれました。 この句はNHKの番組で知ったのですが、「かゆい」でした。もし若い人たちに尋ねたら、「いたい」という答えは出なかったでしょうね。

「いたい」も「かゆい」も身体的な「感覚」ですが、ココロの感覚は「感性」といえるのではないでしょうか。最近は人口知能と人間の知能の比較がかまびすしいですが、私は無駄な抵抗はやめて、ヒトはもっと「感性」を高めることに注力したほうが心の安寧につながるのではないかと思います。しかし残念ながら、私たちの「感性」は経年劣化、知識・情報偏重などにより低下の一方ではないかと心配です。
そこでこの「感性」について私の雑学をいくつかランダムに紹介します。最初の二つは、子どもの生まれながらの「感性」の素晴らしさについてです。

① 「兄は、赤ん坊の弟の部屋に入り、こう尋ねました。 ”僕は大きくなるにつれて、だんだん神様の声が聞こえなくなってきたんだ。教えてくれないか?”」
これはアメリカのエッセー集『心のチキンスープ』の一節です。

② ピカソは「ラファエロのように描くには4年かかったが、子どものように描くには一生かかった」と語っています。

私たちの身体は、耳や舌、目などの感覚器を通して世界を直接感じ取り、その刺激が感性や感情を生み出すようにできています。しかし現代では、その感覚が働くより先に、これまで蓄積してきた知識や洪水のようにあふれているたくさんの情報が先入観(予断)となって私たちの認識を覆ってしまうことがあります。そのため、せっかく新しい体験に触れても、それをありのままに受け止めるのではなく、先入観というフィルターを通して見たり感じたりしてしまうことが少なくありません。

③ 先日、著名な指揮者ファビオ・ルイージが、マーラーの交響曲第3番の終楽章について説明を求められました。すると、普段は温厚な彼が鋭い目つきでこう言いました。「私に聞かれても困る。私は学者ではなく音楽家だ。音楽は感じるものであり、言葉で説明したら台無しになる。」

④ あるクラシックギタリストはこう語っていました。「自分の感情を身振りや表情に出しすぎると、聴衆はどうしてもそれに引きずられてしまう。だから私は、できるだけ全身の動きや表情を抑えて演奏している」 そういえば著名な指揮者ローリン・マゼールはすこし皮肉を込めて「聴衆はオーケストラを聴きに来ているのではなく、カルロス・クライバーの指揮を見に来ている」と言ったそうです。ぜひユーチューブでクライバーの指揮ぶりをご覧になってみてください。

⑤ これは音楽に限ったことではありません。たとえば、Amazonで本を買うとき、私たちは注文する前に、会ったこともない人たちのレビューに読みふけるといったことが少なくありません。思い当たる節はありませんか。実は、私はいつもそうしています。

⑥ ワインやお酒だって、値段やブランドで味や匂いがガラッと変わります。変わりませんか? 以前、大学の先生たちの懇親会で、ビール党を自認している先生方にブラインドテストをして惨憺たる結果を楽しんだコトがあります。

現代では、とりわけSNSが玉石混交の情報をシャワーのように浴びせ続けています。その結果、私たちは自分自身の感性で物事を受け止める前に、他人の評価や意見によって「予断」を形成してしまいがちです。気をつけましょう、オノオノガタ! 

なお詩人茨城のり子は、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と檄を飛ばしています。

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