いま村上春樹著『騎士団長殺し』を読んでいますが、以下の文章に目が留まりました。
「プラハの小さな歌劇場で「ドン・ジョバンニ」を聴いたことがあります。プラハは「ドン・ジョバンニ」が初演された街です。劇場も小さく、有名な歌手も出ていませんが、とても素晴らしい公演でした。歌手は大歌劇場でやるときのように、大きな声を張り上げる必要はありませんから、とても親密に感情表現が出来るんです。メトやスカラ座では、アリアは時として、まるでアクロバットみたいになります。でもモーツアルトのオペラのような作品に必要なのは、室内楽的な親密さです。そういう意味では、プラハの歌劇場で聴いた「ドン・ジョバンニ」は、ある意味理想的な「ドン・ジョバンニ」だったかもしれません。」
すぐに以下のことが思い出されました。
(1) 5年ほど前、サンクトペテルブルグで貴族の私設歌劇場で寸劇を観ました。最初はその小ささに正直ガッカリしましたが、役者や演奏家の息吹が間近に感じられ、とても濃密な時間を楽しみました。
(2) ロンドン駐在時、ランチの後にオフィス近くの石造りの小さな教会に立ち寄り、1ポンド(当時約160円)を払ってクラシック音楽を楽しみました。プロを目指す音楽大学生の舞台度胸づけの場でしたが、素晴らしい音響が忘れられません。
上のような経験を通じ、私は「ヒューマンスケール」という考え方にとても共感するようになりました。私の本業であったホテルビジネスでも、米アトランタに建てられた巨大な吹き抜け空間(アトリウム)を持つハイアットリージェンシー以来、巨大なタワー建築が増えていきましたが、利用する私たち人間のサイズはせいぜい2メートル、昔から今も、そしてこれからも変わらないと思います。 「足るを知る」ではありませんが、どんな事物でも主役である私たち人間のサイズに合ったものであるべきだと思います。
いまAIが急速に発達しており、今のところは私たちの役に立っているようですが、これもやはり私たち人間がコントロールし使いこなせる「ヒューマンスケール」を越えないようにしなければならないのではないでしょうか。ちなみに世界経済フォーラムが毎年発表している「グローバルリスク トップ10 2024年版」は異常気象や生態系の崩壊リスクとともに、「誤報と偽情報」「AI技術がもたらす悪影響」「サイバー犯罪」がランクインしています。
明治時代のジャーナリスト福地源一郎は、「一言で国を亡ぼす言葉、それは”なんとかなろう”である」と喝破しています。何とかしないと・・・・。