作詞家 阿久悠の慧眼  

都はるみ「北の宿から」、八代亜紀「雨の慕情」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、小林旭「熱き心に」、西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」・・・私はこれらの曲を最初に聞いたときにその歌詞にビビビッときました。 作詞家は阿久悠です。今日、彼のエッセー『清らかな厭世』を読了しましたが、以下に少し長いですが、彼らしい鋭い社会のまなざしを紹介します。

① トンデモナイ潔癖社会であるらしい。自分以外の人に対しては完ぺきを求め、ちょっとでも欠点や失敗が見つかると袋叩きにする。一方、公徳心という言葉は、探しても見つからない。自動車にふれたこともないペーパードライバーが、無事故無違反で最優秀ドライバーとして表彰されるようなもので、何もしなかった人だけが褒められる社会になっている。だからといって、この最優秀ドライバーの自動車に乗る気にはならない。
② 現代人がどのくらい人間嫌いかということは、動物に対する過剰な愛情ぶりを見ているとわかる。いや、動物に愛情を注ぐというより、動物に救いを求めていると言った方が正しいかもしれない。動物を愛することは、対人間の場合と違って相手に疑いを抱いていないので、人の表情が和む、善人に見える。
③ 日本人は「仲良く」が好きである。水や平和や安全と同じように、「仲良く」が絶対だと考えるためにぎくしゃくする。この世に人と人でも、国と国でも、仲良きことを前提にするから腹が立つ。半端に好意で解釈するより、仲の悪いことを承知のうえで、お互いが「行儀」を考えるのが唯一の道である。この世の中にタダのものはない。水や平和や安全と同じように「仲良く」も、努力して等価交換しなければ手に入らないものである。
④ 昨今のトレンドをは何だろうかと見つめて見たら、それは「だらしなく」であることに気が付いた。ズボンからはみ出させるシャツの裾、ずり落ちそうなズボンのはき方、ベルトの端をベルト通しに通さずにブランブランさせているファッション。たかがファッション、好きなようにやらせておけばいいじゃないですか、自由な発想の自由な生き方も貴重ですよと。これらに阿る人たちもいるが、「ちゃんと」があっての「食み出し」「くずし」で、正調なしの変調だけで推移していくと、時代そのものがだらしなくなってしまう。
⑤ いい悪い、面白い面白くないは、主観の違いがあって、かりに酷評を受けたとしても、それは見方の差ということが出来た。それが何人の人が見たかという視聴率で測られると抵抗できなくなった。「数字がねえ」と言われると、いかなる傑作も、良心作も、退場せざるを得なくなった。
⑥「本音」が流行り始めたのはいったいいつごろか、最初は光り輝いていた。なぜなら、一向に本音を語らない、むしろ本音を包み隠すことを美徳としてきた上の世代を蹴散らすには、格好の価値観に思えて時代や社会が飛びついた。しかし、すぐに、誰もかれも本音を語り始めたとき、空気の中にガラスの破片が混じったような感になり、スッキリするどころか、語れば語るほど自らが傷つくことが分かってきたのである。そろそろ、本音のあばれ馬を調教するために文化があったのだと知ってセーブしないと、地球さえ壊しかねない。
⑦ 今、日本文化が滅びの危機にあるものは言葉であり、なんでも省略して軽便化を図る傾向である。それらはやがて隠語化して、そもそもの言葉を食い尽くす。今のように、名前から、地名から、場所名から、状態、形態、機能まですべて省略語で伝えるのは異常な事である、中学生の遊びならば愛嬌であるが、それにマスコミやメディアが媚びて使い始めたものだから、非常に不健康な、知性を失った隠語社会を作り出しているのである。
  <ある地方紙の一面見出しに長崎の観光について ”「エモい」価値観に訴求”と出ていたが、私にはまったく意味がわからなかった。安徳 >
⑧ テレビのワイドショーを見ていたら、かの御大尽のお座敷遊びの復活だと気が付いた。旦那、御大尽にあたる人気タレントが中にいて、それを達者な幇間と色とりどりのきれいどころがご機嫌を伺い、されに取り巻きがヤンヤと盛り上げる。お座敷は賑やかで楽しそうだが、外の見物人にとって面白いものではない。
⑨ ある外国の友人は言った。「日本人はね、他人の目だけが怖くて神が怖くない不思議な民族でね。他人が見ていなければ、どんな破廉恥でも平気でやる。だから、頭の下げ方から、戸の開け閉めの方法、下駄のそろえ方、風呂敷の包み方まで、何から何まで決まりごとにしなければならなかったのだ」

以上、如何ですか、オノオノガタ! 

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