堺屋太一さんの慧眼『団塊の後 三度目の日本』(その三)

<一度目の日本>幕末維新の動乱の前、江戸時代の社会的倫理は唯一、社会の安定、当時はこれを天下泰平といった。そこに「黒船」がきて、「世界は今や進歩の時代、門戸を開いて我々欧米に加われ。つまり天下泰平よりも進歩改革だ」というメッセージを発信した。これに日本中が大反発し、そんな欧米は叩き出せと尊王攘夷運動が広がった。しかし「攘夷の実行」とばかりに欧米の軍艦を攻撃した長州や薩摩が大敗し、それを目の当たりにした瞬間に、日本人の倫理観は変わり、天下泰平を捨てて富国強兵を目指すこととなった。そのために廃藩置県で中央集権国家を作り、官僚と軍人の専制体制を作った。また技術と知識の導入で殖産興業、財閥を育て農地地主を権威づけた。

<二度目の日本>敗戦直後にはまだ「無条件降伏は悔しい」「日本は正しかった、大和魂を護れ」という気分があった。しかし、終戦後二か月したころ、アメリカ兵の一隊がジープを連ねてきて子供たちにチョコレートやチューインガムをくれた。とたんにみな「アメリカはすごい国やな」と驚き、「あんな国と戦争したんやから負けるのは当たり前や」と考えるようになった。そしてそれが今まで続いている「アメリカ陣営に属して軍事小国経済大国を目指す」という外交防衛コンセプトと「東京一極集中の規格大量生産型の工業社会を目指す」という経済社会コンセプトを作り上げた。(GHQ主導の農地解放により小規模農家が増加し、農業生産性の向上が阻害された。安徳)

会社勤めの傍らで実家の小売店を手伝う人も、学校の先生をしながら塾で教える人も、農協にお寺の住職を兼ねる人も大勢いました。全国には何百人もの兼業農家がありました。それが日本の経済と活力の支えになっていた。しかし、平成になるころから中央の霞が関官僚の主導で「二つ目の仕事」はどんどん減らされた。農業も流通も「近代化」と言う名目で専業化が強いられた。

地方小都市では所有者が住んでいない古い農家や家屋だけでなく商店街でも古く危険な建物が増えている。市が代執行で危険家屋を撤去すれば、固定死産税が上がるので持ち主が嫌がる。土地を市に寄付してもらえば、市の固定資産税収入がなくなってしまう。

観光地に行っても立ち入り禁止だらけ。パーティーの残り料理の持ち帰るもダメ。日本では消費者の自己責任という考え方がないんだな。全て官僚が決めるし、決めてくれると思い込んでいる。

官僚の皆さんは勤勉で調査能力と記憶力に長けておられる。そしてそれぞれの官庁に忠実です。しかし国会答弁で遅くまで残らされて、各省各局の合議でないと何事も決められない。そして二年ごとに移っていく。考える間も変える期間もなしの前例踏襲。これではまさに「偉大なる凡庸」、アンナ・ハーレントの言ったとおりだ。

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