ロンドン駐在時、本社からの一本の電話で沖縄パレスオンザヒル沖縄ホテル総支配人の辞令があり、一週間後には生まれて初めての沖縄に着任しました。これまでは海外新規ホテルの開発が専門で、はじめてのホテル現場仕事であるため、目先の仕事だけでアップアップで、沖縄について勉強する絶好の機会を逃してしまいました。しかし、先日、柳広司著『南風(まぜ)に乗る』を読み、これまで日本政府、米国(軍)が沖縄に対していかに理不尽な仕打ちを続けてきたかを思い知らされました。私は本を読んでいて気になったところを備忘録に書き写す習慣がありますが、一冊の本でこれほど多くのことを書き写したことはありません。もう読まれているかとは思いますが、念のために私の備忘録から転載させていただきます。それにしても主人公の瀬長亀次郎さん(1907‐2001)のような、したたかでかつ人間的な魅力をもつ政治家は、いま見当たらないのでは?
1945年6月、沖縄守備隊牛島司令長官が自決したが、自決に際して牛島が沖縄全軍に「徹底抗戦」を命じたため沖縄本島各地で戦闘が継続し、沖縄での降伏調印は本土降伏から半月以上経った9月7日。その間も犠牲者は増え続け、沖縄線での死者は県民のじつに四分の一にのぼる。近代以降の戦争では、兵士のみならず国民すべてが敵国の人間を人間とは思わないように洗脳される、
1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印された。しかし、① その第一条で、「連合国は日本及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する」と謳っているが、批准国にはソ連や中国は含まれていない。② その第三条で、米国は南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)小笠原諸島などの領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとなっている。これでは、本土は沖縄を切り捨てた ― 売り渡した ― と言われるのも当然だ。
翌日、日米安全保障条約が調印され、米軍は「占領軍」から「駐留軍」と看板を掛け替えただけで日本国内に留まり続けることが可能になった。独立国家内に他国の軍隊が一方的に駐留し続けることじたい、“おかしなこと”だ。全権主席吉田茂は後世の非難を覚悟したのだろうか、同行した大使池田勇人には署名させなかった。
1951年2月、日米安全保障条約に基づいて日米行政協定(後の日米地位協定)が締結され、日本国内にありながら日本の法律下には置かれることがない米軍の地位(特権)が取り決められ、米軍の治外法権が認められた。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した。1953年4月、米軍民政府は「土地収用令」を施行し、問答無用の軍用地(基地)強制収用が行われた。出動した米軍が力づくで家屋を破壊、ブルドーザーで耕作地を容赦なく均していった。その後、軍用地料として米軍査定による極めて安価な軍用地料一括払いが発表された。
1955年、全沖縄が「島ぐるみ闘争」に盛り上がっているさ中、米軍機が伊江島上空からガソリンを散布し、住民を強制に避難させた後、島内各地で放火し、30万坪におよぶ広大な土地が焦土と化した。
1957年ごろからは日本各地で米軍基地への反対運動が高まり、米国国務長官が「日本に駐留中の米海兵隊員(殴り込み部隊)四万人を撤退させる」旨を発表したが、日本からの撤退先は沖縄であった。
1965年8月15日、日本の首相として戦後初めて佐藤首相が沖縄を訪問した。(戦後二十年目) 非核三原則が謳われた、後に判明した公文書から、1967年時点では、1300発の核弾頭が存在していたことが確認されている。
1968年11月、嘉手納基地内でB52大型爆撃機が墜落し、屋良小学校を含めた365棟の建物が損傷した。
その翌年、嘉手納基地に隣接する知花弾薬庫で毒ガス漏れが発生し、「イベリット」、「サリン」などの致死性が高い毒ガスが1万3千トン貯蔵されていることが発覚した。最終的に1971年に米領ジョンストン島に移送されたが、これに伴う地上輸送費(専用道路の設置など)は日本側が負担した。これが後の「思いやり予算」の原型となった。
1969年、日米首脳会談において、ニクソン大統領は繊維輸出自主規制と引き換えに、沖縄返還を佐藤首相に約束したが、その内容は以下のとおりであり、沖縄が長年求めてきた「即時無条件全面返還」とは程遠いものであった。
*沖縄の施政権は1972年中に日本に返還される。
*返還後の沖縄においても日米安全保障条約が適用される。
*したがって、米国は沖縄において安全保障上必要な軍事上の施設及び区域を保持する。
なお数年後、この共同声明の裏で、「有事の際は沖縄への核兵器持ち込みを認める」との密約があったことが明らかになっている。現在、沖縄には核兵器はないとされているが、いつどうやって撤去されたかのエビデンスはない。
1971年6月、「沖縄返還協定」が日米間で締結された。日本国会は自民党が強行採決により承認した。
*日本は沖縄の米軍基地存続を容認する。
*日本は占領期間中の米軍の行為を免責する。
*日本はアメリカがつくった現存施設を買い取る。
サンフランシスコ講和条約時点での本土と沖縄の米軍基地面積はおよそ9:1。沖縄の面積は本土の0.6%だから、これでも十分すぎる加重負担である。ところが本土各地で米軍基地反対運動が高まり、本土の米軍基地は徐々に縮小されてきた。この結果、復帰時には本土と沖縄の米軍基地面積比は4:6と逆転した。基地密度(基地面積/国土面積)では、沖縄は本土の約200倍近くに達している。