江戸時代の防災対策

最近の痛ましい自然災害のニュースに接し、我が国古来の防災の智慧を思い出しています。すでにご存じの方も多いとは存じますが、四つほど紹介します。

(1) 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた当時、町火消しの主な仕事は類焼を防ぐための「打ちこわし(破壊消防)」でした。町火消による「打ちこわし」は、町の安全を守るためのやむを得ない行為とされており、壊された家の持ち主もそれをある程度は「仕方がない」と受け止めていたようです。むしろ、自分の家が犠牲になって町全体が助かったというような“義侠心”や“名誉のような価値観もあったそうですね。

 そして江戸の町人社会には「五人組」や「町内会」的な相互扶助の精神があり、被害にあった住民を近隣住民が助け合うという文化があり、仮住まいを提供する、建材や労働力を分け合う、寄付や施しを行うといった支援が自然発生的に行われることも多かったそうです。

 今のように「火災保険」や「国の災害支援制度」が整っていない時代だったので、コミュニティの力がとても大きな役割を果たしていたんですね。

(2)「お江戸八百八橋」と言われたように、江戸には多くの橋(木造)が架かっていましたが、その両端は火の粉がかからないように公開空地(広小路)となっていました。
 最近の痛ましい自然災害のニュースに接し、我が国古来の防災の智慧を思い出しています。すでにご存じの方も多いとは存じますが、四つほど紹介します。

(ア) 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われた当時、町火消しの主な仕事は類焼を防ぐための「打ちこわし(破壊消防)」でした。町火消による「打ちこわし」は、町の安全を守るためのやむを得ない行為とされており、壊された家の持ち主もそれをある程度は「仕方がない」と受け止めていたようです。むしろ、自分の家が犠牲になって町全体が助かったというような“義侠心”や“名誉のような価値観もあったそうですね。

 そして江戸の町人社会には「五人組」や「町内会」的な相互扶助の精神があり、被害にあった住民を近隣住民が助け合うという文化があり、仮住まいを提供する、建材や労働力を分け合う、寄付や施しを行うといった支援が自然発生的に行われることも多かったそうです。

 今のように「火災保険」や「国の災害支援制度」が整っていない時代だったので、コミュニティの力がとても大きな役割を果たしていたんですね。

(イ)「お江戸八百八橋」と言われたように、江戸には多くの橋(木造)が架かっていましたが、その両端は火の粉がかからないように公開空地(広小路)となっていました。
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(ウ) 今桜が満開ですが、江戸時代に川沿いに桜が植林されたのは、花見客がそこを通ることで地面が踏み固められ、自然と防波堤の役割を果たすことが企図されていました。

(エ) 姫路市を流れる揖保川(手延べそうめん「揖保乃糸」はご存じですよね)では古くから水害が多く、1945年ごろにコンクリート擁壁の堤防を建設することになりました。しかしこの時、周辺住民が「眺望を守ってほしい。洪水時には住民も協力する」との声を上げたことを受け、畳堤が整備されました。平常時には橋の欄干のようなフレームの間から川の流れが見渡せ、緊急時はフレームに近隣住民が自宅の畳を差し込むことで堤防として機能させる。水分を含んで膨張し、強度を増した畳が川の決壊を防ぐという仕掛けです。「景観と防災の共存」、「官と民との共助」、素晴らしい智慧ですね。

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