法学部卒の数学者 新井紀子の叡智

ソクラテスは、何か新しいものが生まれるとき、それまであった何かの価値が失われていく危険性を知っていた。だから彼は人類史上最大の発明である文字を用いることを拒み、弟子のプラトンがソクラテスの思想を文字にして残した。だから私はインタビューで「人工知能は、人間のように情緒を感じるようになるか?」と尋ねられる時、「人工知能が私たちの生活に入り込む時、私たち自身から情緒を感じる能力が失われるから、それほど差を感じなくなるでしょう」と答えることにしている。
【蛇足】 石見守が言った。「江戸と長崎に電信が通れば、いちいち閣老の意向を確かめるために飛脚を走らせる必要もなくなります」 それに筑後守が答えた。「便利になれば、その分不都合も増えるぞ」 石見守は尋ねた。「それはどういうことでしょう?」
筑後守はこう答えた。「老中たちの目が届かないから、私らが自由にできたこともある。それに、飛脚が行き来する間、時間を稼ぐこともできた」  今野敏 『海風』

「一橋大生の知性が下がったのは、明らかに生協にコピー機が導入された年からです。書き写すなどということは時間の無駄だ、もっと有効に時間を使わねばなどという浅はかな合理性が、結局のところ一番愚かなのです」 <著者が学んだ一橋大学法学部 阿部謹也教授の言葉>

アメリカの、特に五年一貫制の大学院では、入学後三つの試験をパスしなければ卒業できない。一つ目は通称「クオール」と呼ばれるQualification Exam.だ。 入学後一年目くらいで受けさせられ、その後大学院での学業と研究する能力があるかを試される。失敗すれば退学だ。日本の修士課程にあたる二年間のカリキュラムを終え、博士論文以外のすべての単位を満たす頃、次の試験「プレリム」と呼ばれる口頭試問を受けなければならない。自分の専門分野以外に二分野について、居並ぶ教授たちから飛んでくる質問に黒板とチョーク一本で答えるのだ。最後に、博士論文を書いた後の「ディフェンス」。この三つを通れば、晴れてPh.D (Doctor of Philosophy)、日本で言うところの博士になる。

高校までの数学の授業では、「解けました」「答えが合っていました」が大事であった。ところが、大学では、数学を学ぶ大部分の時間は、数学の教科書を読んで「わかる」ことに費やされるようになった。

「どのような人材を労働市場が求めるか」は、どのような子供を育てたいのかという私たちの願いなどには関係なく、技術の都合が決めてしまう。過去のすべての技術革新がそうであったように、技術にはできることと、出来ないことがある。技術側の都合で、人間が担うべき労働は残されるのだ。それを、人間が喜んでするかどうかは別として。

現在のAIにできることは、完璧でない(過ちも犯す)、普通の人間の判断の模倣にすぎません。人間を超える高度な判断ができるはずはありません。テレビに映る政治家たちはどう見ても完ぺきではありません。それでも政策決定をAIという統計に任せてはいけません。それではだれも責任を取らなくなります。不完全でも、愚かでも、私たち一人一人が責任の一端を担ってこその民主主義ではないでしょうか。

若いころ、大きな定理を狙ったことがある。根をつめて考え抜いたその時、こうすれば解けるという道筋が見えてきた。それで、喜び勇んでその筋の大家のところに行き、「こうすれは解けると思うんです」とそのアイディアを披露した。すると、相手はやや顔を曇らせて、「どうだろう、それではうまくいかない気がする」と言った。そうしたら迷いが湧き出してきて、見えていたはずの道筋が見えなくなってしまった。数年後、同じ筋道で、よその国の人がその定理を仕留めた。

人の中で、最も燃料食いの器官は脳だ。エネルギーの約20%を消費する。当然、酸素も多く使う。酸素ボンベを背負わずに深く潜るには、脳をなるべく動かさないことがカギだ。ほんの少しの迷いや恐怖が、脳を動かし酸欠に陥らせる。 <ジャック・マイヨールの言葉>

AI技術は、「正しさとは何か」という哲学的な問いを捨て去り、自然な「生成文」を最適化するように開発されてきた。正しいことを答えるようには作られていない。だから生成AIは、部分的に正しい答えを返すことの方を、むしろ副産物だととらえるべきだろう。

生成AIは、あなたが嘘を見破ることが出来る程度に熟知している分野の業務の効率化には大きく寄与するだろう。その際、彼らの性質を知ったうえで、「プロンプト・エンジニアリング」と呼ばれる、的確な問いを通じて、彼らを飼いならすことが出来る。

新井紀子 『夏蜜柑とソクラテス』

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