以前、岩手県花巻市の宮沢賢治記念館で宮沢賢治の凄まじい推敲の痕跡が残っている手書き原稿を見ました。ほとんど判読能なくらい、加筆修正が繰り返されています。私たちは最終稿を活字で読むだけですが、その裏にはこんな努力があることに感動しました。長崎県外海町の遠藤周作記念館でも同じ経験をしました。
一方、芥川龍之介は出版された後も推敲の手を緩めなかったようです。日本語学者今野真二さんによれば、『羅生門』の締めの文章は以下のように2度書き換えられています。
大正4年(1915)出版本 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった」
大正6年(1917)出版本 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた」
大正7年(1918)出版本 「下人の行方は、誰も知らない」
たぶん多くの読者(私を含め)は、最後の文章しか知らないと思いますが、確かに比べて見れば、最後の文章の方がこの凝縮された短編小説の終わりにふさわしい奥深い「余韻」を味わえるのではないでしょうか。
宮沢賢治や芥川龍之介のような大天才でさえ、最後の最後までもがき苦しんでいるのですね。きっと大谷選手も私たちの目に見えないところで凄まじい努力をしているんでしょうね。