「日清戦争後、北里柴三郎門下の海軍軍医、石上亨が『時事新報』に「麦飯を採用した海軍では脚気患者は34名、死者1名だが、米食主体の陸軍の脚気患者は3万5千名、死者は3千9百余名と、戦闘による死者の4倍強に達した」と公表した」
「日露戦争でも陸軍は米食主義を貫き続けた。けれどその意固地は、惨憺たる結果を招いた。陸軍の死者4万7千のうち脚気の死者は2万8千に達し、戦死者よりも多かった。一方、麦食を採用していた海軍の脚気死者は、わずか百名余であった」
これは自身も医師である海堂尊が書いた『奏鳴曲 北里と鴎外』からの抜粋です。今年、新千円札の顔として登場した北里柴三郎と、陸軍医療部門のトップと文筆家の二足の草鞋を見事に履きこなした森鴎外、この二人はほぼ同じ時期にライバルとして火花を散らしています。そのひとつが、「脚気」論争でした。
日露戦争が終結したのが1904年ですが、1912年にポーランドの生化学者がビタミンBを「米ぬか」から抽出するまで、脚気は細菌が原因ではないかと考えられていました。
しかしそれ以前から海軍は(多分コストの面から)平時でも戦時でもつねにビタミンB1が豊富な麦を3割、そして米が7割という「麦飯」を食べさせていました。一方、陸軍は平時には麦2割米8割の比率の「麦飯」でしたが、戦争が始まると「陸軍に入れば銀シャリが腹いっぱい食べられる」というキャッチフレーズで徴兵し、麦が全く入っていない白米を食べさせていたのです。
その結果、冒頭に紹介したように日清・日露の両大戦における日本軍の脚気の罹患者数・死者数は、海軍と陸軍の間に極めて大きな差異が出ています。その数値は公表されており、北里柴三郎は陸軍医療部門のトップである森鴎外にも直接「麦飯」導入を勧めているのですが、鴎外は首を縦に振りません。
2人ともドイツ留学を経験した優れた医師でありながら、何故?
ここがこの小説の身味噌醤油なんですが、小説では組織の「面子」や「縄張り争い」、個人の「保身」などが見事に浮き彫りにされています。素晴らしい才能の持ち主のぶつかり合いを見ていると、「奏鳴曲」ではなく「迷走曲」ではなかったのかという思いも残りました。でもお正月の読み物としてはおススメですよ。