高坂正尭著『国際政治』

最近は葉室麟の時代小説などを読んでいますが、たまにはちょっと硬い本も読んでみようと手に取りました。腐りかけている頭の整理に役立ちました。いつものオセッカイ精神を発揮して、私の読書ノートに転記したものを以下にコピペします。ゴールデンウイークの最終日、もしお時間と興味があられましたらどうぞ。

人びとは国内政治を見るとき、複雑な権力闘争を当然のことと予想する。ところが、人びとは国際政治を見る場合になると、それよりもいっそう単純に、より抽象化された想定から見る。当然その単純な想定は、現実の国際政治の展開によって裏切られる。 その結果、国際政治は「複雑怪奇」であるといって、正確に認識するのを諦めているのではないか。 しかし、明治時代の政治家たちは、国際社会における権力政治に対する鋭敏な認識に基づいて行動していた。

昔から、困難な状況に直面したとき、人間はいつも非難すべき悪い人間や悪いものを見出して、それを血祭りにあげてきた。そしてそれは二重の意味で人間の知的労働を省いてきた。 まず、単純明快であった。つぎにそれは、普通の人々の方は何も変化しなくてもよく、それまで通りの生活を続けることを可能とするものであった。

国家は、「力の体系」であり「利益の体系」であるとともに「価値の体系」である。各国間のこれら三つの体系の利害関係を調整することなしに平和は実現しない。しかし、昔から平和について論ずるとき、人びとはその一つのレベルだけに目を注いできた。

ある人が次のように言っていた。「豚を食べる人と豚を食べない人との間がうまくいかないのは当たり前だ」

人間は、相手の侵略的意図を疑うことはあっても、自分が相手に対して与えている脅威に関しては鈍感である。相手国の軍備は脅威として捉えられ、自国の軍備はこれに対抗する防衛的なものとされるのである。このため、軍備拡張競争がおこる危険はつねに存在する。

たとえ外交官のあいだで、相対立する利害の妥当な妥協点を見出すことが出来ても、つぎに彼らは、それが国民(感情)によって受け入れられるかどうかを心配しなくてはならない。

ヨーロッパからアメリカに移住した人びとは、ヨーロッパの悪い権力主義を捨てて新しい、平和な国家を創り上げたと考えていた。そしてじっさい、アメリカは19世紀を通じてヨーロッパ諸国が展開する権力政治には参加しなかった。そのために常備軍ですますことができ、もっぱら経済力を発展させていった。やがて、アメリカが国際政治の渦中に巻き込まれるにつれて、アメリカはそのための能力を発展させるようになった。今日、アメリカは世界最強の軍備を持っている。その事実だけで、アメリカが好戦的であるとするのは即断であるけれども、しかし、アメリカの体制を平和的と言い切ることが出来ないのは明らかである。

アメリカ革命のすぐあとにおこったフランス革命も、国際関係においてアメリカと同様の劇的な変化を示した。人々は、戦争は王や貴族たちがするものであり、人民の意思が反映すれば戦争は起こりえないと考えた。1790年のフランス憲法第六条はこの楽観主義を表している。

「フランス国民はすべての戦争を否定する。フランス国民はいかなる人民の自由を抑圧するためにも武力を用いないであろう」

しかし、オーストリアやプロシアなどの旧制度を持つ国がフランス革命に介入しようとしたため事情が一変した。仏公安委員会委員カルノーは歴史上はじめての徴兵制度を創出し、全国民がフランスの戦争目的のために協力することを求めた。フランス革命はやがてナポレオン独裁を生み出し、ナポレオンはそれまでにない征服戦争をおこなった。そして戦争を否定していたフランス国民は興奮し、これを称えたのである。

混乱した国際政治の状況は、邪悪な国家の存在や人々の道徳的堕落といったもので説明できるものではない。それは各国の行動を規制する準則が弱まり、他の国がいかなる行動様式をとるかを理解できないか、あるいは信用できない状況なのである。安定した状況には、そのような行動準則が存在する。国際法はその最も代表的なものであった。国際法が強制力を背景にした明確な放棄でないことは否定しえないが、それが各国の行動に一つの基準を与えてきたこともまた事実である。一つの例として戦争法規がある。それは全体として戦争行為を国家間の権力闘争の最終手段として認めながら、それを規制するという考えの上に立脚している。その最も代表的なものが中立という制度である。直接戦争に関係ない国家の存在を認め、その権利と義務を保証することによって、戦争行為が及ぶ範囲を限定するという機能を持っている。

しかし、現在はこうした準則が国際政治の現実とかけ離れたものになっている。なによりも全体戦争(軍隊だけでなく、国民・経済・産業など国家の力を総動員して行う戦争 安徳)の時代である現在、戦争行為を制限することは容易ではない。たとえば戦闘員と非戦闘員という区別は、ミサイル戦争においてもゲリラ戦においても、則ちこの二つの全体戦争において可能ではない。

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