「人は、何か理由を見つけては、すぐに「考える」という真の労働を怠るものだ。」イギリス人画家サー・ジョシュア・レイノルズ(1723年- 1792年)が残したこの箴言を今嚙み締めています。
きっかけは、「静岡銀行、”自動で稟議書作成”めざす」という2024年3月20日付日経新聞の記事です。記事によれば、担当者は融資金額や期間などの条件を入力すれば、コンピュータシステムが過去約100万件の貸出金データベースのなかから類似案件を自動的に表示してくれ、担当者はこれをコピペ(コピー&ペースト)して融資決済を通したい会社用に加工するだけで稟議書が出来上がるとのこと。この記事のタイトルは、「AIで脱ムリ・ムラ・ムダ」
古い奴とはお思いでしょうが、稟議書をコピペ!私には考えられません。
私が約20年前に大学教員に転職した時に面食らったのは「シラバス」というコトバでしたが、いまから半世紀以上も前に会社に入った時に教えられた「稟議書」はそれ以上の未知との遭遇でした。その後、全日空ホテルの海外新規ホテル開発を担当したために数多くの稟議書を作成し、その都度、大量の冷や汗と脂汗を流しつづけ、おかげで肥満を避けることが出来ました。(これは決して体重がしっかりされている方へのハラスメントではありません、念のため)
いまでも覚えているのは「俺は稟議書は中身以上に稟議を書いた担当者がどれだけ真剣に考え抜いたものかで判断する。担当者がどれだけ一生懸命考え抜いたものかどうかは、字の筆圧と丁寧さでわかる。だから稟議書は(ワープロではなく)手書きしか認めん!」という某役員の言葉です。<このため私はいま、社員研修では必ず手書きのレポートを求めています> 彼は、「不満だが通す」場合にはハンコを逆さまとかナナメに押していました。決済後に稟議書が戻ってきても、それを見たら、役員室に慌てて飛んで行ったものです。
私は一般社員と経営幹部との間にはやはりフェースツーフェースのコミュニケーションが絶対に必要であり、稟議書はそのツールとして極めて有効なものであったと考えます。
なおこの囲み記事は「テクノロジーを業務に溶け込ませ、相乗効果を引き出せるかは働く銀行員の意識改革と適応力がカギとなる」なーんてまるっきり上から目線のコメントで終わっています。ガッカリです。私は大学入学以来もう60年近く日経新聞を購読し続けています。しかし最近はめったやたらと広告スペース(とくに全面広告)が増えており、この頃少し「60年目の浮気」も考え始めています。安徳拝